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「法助動詞」の謎①

聞きなれない名称ゆえ説明しよう。「助動詞」には2種類ある。「第1助動詞」と「法助動詞(第2助動詞)」だ。前者はdo/does/didといった「直説法」すなわち「事実を淡々と述べる」際使用する。一方後者はwill(would)/can(could)/may(might)/must/shall(should)/ought to…のように、話者の「気持ち」を盛り込むものだ。だがここで疑問が湧く。「法」の名を冠している以上「仮定法」しかありえない。確かに過去形の助動詞は「仮定法」とされている。だが「現在形」のそれを「仮定法である!」と断言されている方はゼロなのだ。実に不憫である。彼らは一体どこに行けばいいのか? willの扱いは特に酷い。何と「直説法」に分類されている。willとwouldはともに「心の動き」を表す。その違いは単に「確信の度合いの差」に過ぎない。然るに何故一方は「直説法」で一方は「仮定法」になるのか? 様々な方の言い分を聞いてみるに、どうやら「willは十分起こりうることだから事実だと見做せる!」というものらしい。だがこれは詭弁であろう。可能性の大小に拘わらず「想い」を表していれば「仮定法」のはずだ。「仮定法過去」が実現の可能性が低いのは確かだが、それなら「仮定法現在(可能性が十分ある)」があるではないか? そこで古英語・ラテン語・古代ギリシャ語・古代ヘブライ語にまで遡って「接続法(仮定法)」について調べ直した。疑問に思ったらまずは「歴史を遡る」ことだ。そうすれば必ず答が見つかる。Nihil novum sub sole.[ニヒル・ノウム・スブ・ソレ]「日の下(もと)に新しきもの無し(旧約聖書・伝道の書)」である。中心となるのは古代ギリシャ語だ。古代語の活用を最も忠実に保存している言語だからだ。同言語では「仮定法」は「接続法」と「希求法」の2種類に分かれる(ラテン語は接続法のみ)が、「希求法」などと言っても受験生諸君を混乱させるだけなので全て「接続法」に統一した(1か所以外)。「現代英語」には「仮定法」、それ以外の言語には「接続法」の呼称を用いた。

まず「直説法」と「仮定法」の違いから確認する。簡単に言えば、話者が「事実だ!」と考えていれば「直説法」。「事実かどうかはどうでもいい。これは私の夢よ! 願望よ!」というなら「仮定法」だ。「事実と反対のことを仮定するのが仮定法だ」と考えていらっしゃる方が、英語の先生も含めてほとんどだ。「間違い」とまでは言わないが、それでは仮定法の一側面しか捉えていない。そもそも「仮定法」なる呼称自体が「誤訳」である。「接続詞の後ろに特徴的に現れる法」であるから「接続法」の方がはるかに正確だし「想いを述べる」という意味では「叙法」なら言うことはない。一方「直説法」は「事実を述べる」のだから「叙法」となる。「正に説明する」だから「直法」でも悪くはないのだが、つり合いや語呂を考えればやはり「叙実法」VS「叙想法」であろう。では「文句なく仮定法」という表現を英語から見てゆこう。注目すべきポイントは「法助動詞の現在形(willなど…)が使ってあるかどうか? 」だ。話の流れ上「法助動詞の過去形(wouldなど…)」も登場させた。

  • in case S should V「SVしないように・するといけないので」…①
  • so that S may/can/will V「SVするために」…②

①は「恐れ」、②は「希望」といった「心の動き」を表す。間違いなく「仮定法」であり、古代ギリシャ語でも「接続法」に分類されている。特に①は主節が過去形でもshouldは変化しない。「仮定法は時制の一致の例外」という規則そのままだ。②は主節が過去の場合はmight/could/wouldへと時制を移す(「時制の一致」)が、これも古代ギリシャ語に見られる接続法の用法(時制を接続法から希求法へ移す)である。

  • Whatever may happen「何が起ころうとも…」…③
  • However hard you may try「いくら努力しようとも」…④

mayは「努力するかもしれないがそれでも…」というニュアンスで入っている「仮定法」だ。

  • Should I do that? 「それをすべきだろうか? 」…⑤
  • Shall we dance? 「踊りませんか? 」…⑥
  • Don’t do that!「そんなことをするな!」(否定文のみ)…⑦

また「単文」にも接続法が見られる(接続詞がないのだが、これに関しては様々な解釈がある)。一人称単数・複数を主語とした⑤⑥の表現なども古代ギリシャ語では接続法に分類される。また驚きなのは⑦なども「接続法扱い」と言う点だ。もう完全に「命令法(命令文)」である。「命令法と接続法は境界線が曖昧…」と以前書いた所以(ゆえん)である。その親和性を最も端的に表すのがsuggest that S+V(原形)「SがVすることを提案する」などの表現だ。「命令(order)・要求(demand/need)・主張(insist)・提案(suggest/propose)」などの動詞の後ろにこの形(仮定法現在=動詞の原形)を取る。I insisted that he pay the bill.「彼がお勘定を払うことを主張した」など、早い話が「金払えよ!」ということだ。「仮定法」も一歩進めば容易に「命令法」になる。「動詞の原形」という形までご丁寧に一致している。「直説法」の「現実の法」に対し「仮定法・命令法(連合軍?)」に古代人は「心の法」を見たのである。

だがSNSなどには反論も根強い。「そんなこと言ったら『want to do(〜したい)』すら仮定法になってしまう。仮定法だらけじゃないかー!」というのである。そう、want to doも「意味的」には仮定法だ。「仮定法だらけですがそれが何か?」と言いたい。「ラテン語・ギリシャ語聖書(旧約・新約)」など、ほぼ半分が接続法の文(筆者の皮膚感覚だが…)である。「関係詞に導かれる節(S+V)」すらも接続法になっている。流石にここまで来ると「やりすぎだろ!」と筆者も思うが、この両古代言語は後代においては機械的に「従位接続詞(関係詞・含)の後ろの動詞は接続法を用いる」というのがほぼ慣例化していたのだ。話をwant to doにもどす。

want to doのto doは「句(S+Vなし)」であって「節(S+Vあり)」ではない。従って正確には「仮定法」とは言えない。「法」とは「動詞の形(=V)」であるからだ。しかし既に書いたが「意味的には仮定法」である。その証拠にdesire「強く願う」などはdesire that S+V(原形)という形を取り、ちゃんと「仮定法現在」を形成する。さらにwanted to have pp「〜したかったのに(できなかった)」なる用法もある。これはhad wanted to doと表現してもいいのだが「手が届かないー!」感を表現するために、ちゃんと時制をずらしているのだ。これなど「仮定法過去完了」の手法そのものではないか? ここまでくれは「法助動詞はすべて仮定法」という筆者の仮説もご納得いただけたと思う。そもそも我々の脳内は、「現実50%・夢50%」でできている。英文が「仮定法だらけ」なのは当然であり、そうでなければ逆におかしい。だが英語という言語は「仮定法の活用を(were以外)全て捨て去ってきた言語」である。故に「想い」を表現しようにも、その手段を失くしてしまったのだ。その受け皿となったのが「法助動詞の出現(古代に助動詞は存在せず)」であり「不定詞の進化」ということだ。ただwillだけはちょっと事情が複雑なようだ。ごく一部、「willは直説法」という例が見られなくもないからだ。

  • If need be, I will help you.「もし必要があれば助けるよ」[仮定法現在]…⑧
  • If he turns left, he will find the library.「左に曲がれば図書館だ」[直説法現在]…⑨

⑧は「動詞の原形」が使われているから「仮定法現在」。つまり「想い」がこもっている。一方⑨は現在形だから「直説法」。つまり淡々とした道順の説明だ。しかし主節には同じwillが使われている。つまりこの2つのwillは別物なのだ。⑧が「意志未来」。⑨が「単純未来」である。故に⑨のwillなどは「直説法」だと考えてもいいだろう。このような「1足す1は2になるよ」的な「単なる仮定」を表現する際は、古代ギリシャ語でも「直説法」を使っている。ただ古英語ではwillはwilleとなるのだが、「直説法」でも「接続法」でもwilleなのだ。willに「単純未来(直説法)」と「意志未来(接続法)」があるのも、こんなところに由来しているのかも知れない。

執筆:鈴木先生(JUKEN6月号掲載)

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