去る3月に新中1の説明会が開催されました。外部の保護者向けの説明会ですので在校生の皆さんでお聞きになっていらっしゃる方は多くはないはず。そこでこの日にお話しさせていただいた内容3点を、ここでも再度お話ししたいと思います。受験生諸君には「そんなこと今さら言われでも...」という部分、なきにしもあらず...でしょうが、活用できる部分も多々あるはずです。

1.「音」と「脳」

音を無視した単語暗記は無意味」とはすでに書きました。「脳と文字のお付き合いはわずか5000年」とも...。そこで脳と文字の関係をもう少し整理したいと思います。図示すれば以下のようになります。

文字 ⇔ 音・映像 ⇔ 


「文字」と「脳」とは直接つながって「いない」ことがわかると思います。文字は「音や映像に変換されて脳にストックされる」のです。確かに写真を撮るかのように「文字を直接脳に焼き付ける」ことのできる人がいるという話は聞きます。しかしそれは特殊ないわば「超能力」であって、到底我々「常人」の能くするところではありません。例えば英語にはexpで始まる単語がそれこそ「掃いて捨てるほど」存在します。experience「経験」・experiment「実験」・expedition「遠征」・expenditure「歳出」・expectation「期待」・expensive「高価な」などなど。これらの単語を「音」抜きで、どうやって区別しろというのでしょう。一瞬で不可能だと分かりますし何度やっても忘れます。また小説などを読むとします。例えば司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読みました。「江戸時代はこんな風景だったのかな...」と頭にビジョンを描きながら読んでゆくと後々それが頭に残るわけであって、文庫本の文字が脳裏に浮かび上がるわけではないはずです。ですからこれから難解な学問の世界に受験生諸君は進んでいかれるわけですが、音行き詰まったら必ず「音」にもどってください。そうすれば必ず突破口は開けます。

2.「記憶力」VS「論理能力」

「記憶力」と「論理能力」は相反する能力です。「理屈ぬきに記憶する」とは言いますが、「理屈ぬきの論理」など、完全な言語矛盾です。幼少期から中1あたりまでは「記憶力」が支配するのが人間の「脳」だといえるでしょう。「母国語習得」という一大事業を成し遂げるのですから当然です。「何でこう言うの?」だの「この表現の由来は?」などと考えていた日には、母国語など到底マスターできるものではありません。しかし中2あたりを境に脳は「記憶力」から「論理力」に支配される場に変わります。「暗記」は経験に基づくものであり、経験していない分野に適用することはできません。暗記能力だけでは人類が現在の文明を築くことはなかったでしょう。一方「論理」能力はまだ見ぬ世界を類推することも、他者を納得させることも可能です。つまり「力をあわせて何かを作る」ことができるようになるのです。「文明」の始まりです。

話をもとにもどします。論理能力を駆使できるようになると、子供は他者への「批判」を覚えます。「大人は言ってる事とやってる事が全然違うぞ!」というわけです。「反抗期」の始まりです。ですから反抗期はむしろ論理的思考ができるようになった証であり、歓迎すべきことなのです。ただし「他人は批判しても自己批判はしない」という矛盾にはまだ気づきません。批判が自分自身に向けられるようになれば立派な「大人」です。この「脳の特性」を利用して学習計画もたてることが必要です。中1までは徹底して「暗記作業」をさせるべきです。意味などわからなくても構いません。筆者が歴代天皇124代の名前を中1ですべて暗記してしまったことはすでに書きましたが、もっと凄い例もありました。旧約聖書の「白眉」とされる「ヨブ記」と「詩篇」を全編諳んじた...と豪語する生徒さんがかつてこの茗渓におりました。ミッション系の学校で毎朝礼拝の際に読み聞かされていたようです。6年以上にわたって毎朝ですから頷けなくもありません。因みに「アダムからイエスまでの系図をすべて言ってみろ!」と言うと、その場で彼女はすべてを詠じてのけました。とにかくこのころの子供の記憶力たるや、「凄まじい」の一語です。これを利用しない手はありません。そんな大切な時期に「創造性を育てる教育...」など、ナンセンスの極みと言うべきでしょう。そもそも空っぽのところから何を「創造」するというのでしょう。「無」から「有」を生み出すことができるのは「神」だけです。子供に「神になれ!」とでも言うのでしょうか。

それはともかく、やがて論理的裏づけが理解できる時期になってはじめて「なるほど。そういうことだったのか...。」と、「池上さん」の番組のようなことになるわけです。使徒パウロ風に言えば「目から鱗...」というやつですが、それがまた学問の醍醐味でもあるわけです。「学問に必要な才能。それは驚く才能である。」とはある学者の言葉ですが、まさに「我が意を得たり」といったところです。しかし何もストックがなければ「鱗」も「驚き」もありません。幼少期に暗記が得意であるということは、それが「大脳生理学的に理にかなっている」ということです。「暗記教育の弊害」ばかりが取りざたされますがとんでもありません。「学問」=「暗記」と心得るべきでしょう。「創造力」とは「知識の蓄積」から自然と醸成されてくるものであり、トイレで「うーん」と唸って出てくるものではありません。

3.リスニング能力

リスニングが苦手な人が結構います。英検でもこのリスニングがネックになって次に進めない人も...。ではリスニングの得意な人と不得手な人の違いは何でしょう。それはどうも「小学校のうちにほとんど決まってしまう」もののようです。ご存知日本語には母音は5つしかありません。しかし英語では12もしくは13の母音が存在します。つまり英語には「日本語にない音」がいっぱいあるわけです(すべて違う...という説も)。彼らが日本語を聞き取るのは簡単ですが、我々が英語を聞き取るのは至難の技...となるわけです。そして小学校のうちに日本人の耳は5つの母音しか聞き分けられないように「固定化」されてしまうと言われています。「今さらそんなこと言われても...」という感じです。筆者の時代はCDはおろか、カセット・テープすら貴重品でした。ましてや「母音云々...」など、聞いたこともありません。海外で生活することで多少マシにはなりましたが、今でもリスニングは苦手です。一方同じ世代でもリスニングが得意な友人もいます。彼らは例外なく子供のころ「洋楽」を聴いて育っているのです。我々の時代では具体的には「ビートルズ」などですが、歌詞の意味がわからずとも「ただ聞いていた...」というだけで、大人になってリスニング能力に雲泥の差がでてきてしまったようです。では高校生は絶望的なのでしょうか。残念ながら正直かなり辛いようです。最悪でも中学生のうちに英検などで何とかしてほしかったところです。しかし望みがないわけでもありません。急に聞けるようになった子もいるからです。キーワードはやはり「洋楽」でした。弟さんに薦められて聞き始めたところ、伸び悩んでいた英検2級のリスニングの点数が一気に跳ね上がった女の子がおりました。それが原因かどうか確証はありませんが、いろいろ話してみる限りそれしか考えられないのです。リスニングで苦労している人はやってみるといいでしょう。

また「点数が上がらない」=「聞けていない」とは必ずしも言い切れないことにも注意すべきです。リスニング・テストは「聞く力」+「記憶力」です。ストーリーを短時間でもいいので無理やり覚えておかないといけません。どんな質問が飛んでくるか分からないからです。所謂「Short-Term Memory(短期記憶)」というやつです。電話番号をダイヤルする際用いる記憶領域です。「メモをとっても構いません」というメッセージにも注意が必要です。メモを取るということは、「視覚」に注意力が行くことです。当然「聴覚」はおろそかになる。親切心から言っているとは思えません。メモで点数が上がった例も過去皆無ではなく、まさしく「人によりけり」ですが、私は「目は閉じた方がいい」と思います。また聞き取れなかったことをいつまでも悔やむのも禁物です。次の問題まで聞きそびれてしまいます。音はもどってきてはくれません。すっぱり諦めて次に集中することです。さもないと一気に10問くらいバタバタ...と持っていかれてしまうでしょう。リスニングの伸びない原因はその他「千変万化」であり、すべてを解明できたとはとても言えない状況です。「頭を開いてみるわけにはいかない」からですが、伸び悩んでいる人は担当の先生などに相談してみるといいでしょう。






今回は「ローマ字学習」について考察を加えます。これも受験とは直接関係ない話ですが、何かの足しになれば幸いです。

ローマ字学習の意味

先日会議で「ローマ字学習は必要か?」という話になりました。確かに「ローマ字否定論」は日本人の間に根強く残っています。筆者の中1の頃の英語の先生などは、「君たちが小学校で学んだローマ字なんて、英語には屁の役にも立たないんだ!」と、のっけからぶち上げる始末でした。「いくらなんでも"屁"はないだろう...」と子供心に思ったものでした。またネットなどでも肯定論は「消極的肯定論」とも呼ぶべきもので、「国語学習の一環として有効...」といった程度です。確かにローマ字は母音と子音がセットとなっており、日本語の音と酷似しています。しかし理由がそれだけだとも思えません。明治の先駆者たちは、一体どのような意図でローマ字学習を導入したのでしょう。確かに初代文部大臣註1森有礼(もり・ありのり)などは、漢字・ひらがな・カタカタを廃止し、すべてをローマ字に置き換えるというとんでもないことを画策していたようです。結局彼の企みは頓挫し、ご先祖様の遺した作品を我々が読めなくなるという事態が回避されたことは歴史の示す通りです。これは余談になりましたが、以下は私論です。

ローマ字とは読んで字の如く、「古代ローマの文字」のこと。地中海世界に2000年余の長きにわたって君臨し続け、古代ギリシャとともに今でも欧米人のいわば「心のふるさと」として隠然たる影響力を持ち続けているのがこの古代ローマです。その公用語は言うまでもなく「ラテン語」。早い話が我々は、英語より先にラテン語を学習していたということです。従ってローマ字を学習した小学生たちは、意味はともかく音読だけなら、キケロでもセネカでも、はたまたユリウス・カエサルでもマルクス・アウレリウスでも読めるわけです。ラテン語を学べば下って註2スペイン語・イタリア語・フランス語から英語へと、また遡れば註3ギリシャ語へと至ります(ちょっと違う文字もありますが...)。ドイツ語は系統が違います(英語のご先祖様)が、これもアルファベット言語であることは無論です。無関係なのはせいぜい註4ロシア語くらいです。つまりローマ字をやっておけば、どのヨーロッパの言語へも進むことができるのです。こういった便宜を図るものとしてローマ字が採用されたのではないでしょうか。英語はaをあるときは「ア」、あるときは「エイ」、またあるときは「アー」と、読み方自体がまちまちです。これは歴史上「註5大母音推移(グレート・バウエル・シフト)」を起こしたことによるもので、それ以前は英語ですらローマ字読みであったのです。つまり英語の方が勝手にルールを逸脱したのであって、ローマ字読みが使えないのは英語の方に非があるのです。同じ文字をこれほど臆面もなく何種類にも読み分けるなど、世界広しと雖も「英語」か「我らが日本語」くらいのものでしょう。まったくはた迷惑な話です。

さらに重要なのは「発音記号」です。これはいくつかの文字(ギリシャ文字など)を除いては基本的に「ローマ字読み」です。現在は音声機器が発達していますから電子辞書が発音してくれますが、それでも基本は「紙の辞書」と「発音記号」です。ローマ字を小学校で学ばなかった生徒さんは、どのようにして発音記号を読んでいるのでしょう。「音を無視したら単語は何度でも忘れる」と以前書きましたが、昨今単語を覚えられない生徒さんが激増しているのは、そんなことにも原因があるように思えてなりません。また中1でスペルがなかなか覚えられない生徒さんは、まず小学校でローマ字をやっていないと考えて間違いありません。「b」・「d」・「p」の区別が何度やってもつかないのです。従って「dog」と「bag」の区別がいつまでたってもできません。そういった生徒さんには私は結局ローマ字から教えるようにしています。先へ進まないといけない時に大変な負担です。小学校では是非ローマ字は教えておいてほしいものです。尚「ローマ字をやっていると、英語をついついローマ字読みしてしまう」という苦情が聞かれますが、これは「発音が欧米人に近ければ近いほど高等な人種である」という19世紀~20世紀前半の「植民地根性」によるものです。大英帝国がインド支配に用いた手法で、もはや「古典」です。インド人をランク付けし、上流階級と下層階級のインド人同士を争わせるわけです。「分割し、統治せよ。」という、これまた古代ローマの手法の踏襲です。また「名誉白人」などと呼ばれて悦に入っていたかつての日本人も同じです。こんな考えからは早く抜け出した方がいいでしょう。世界中を旅していると、さまざまな国でさまざまな英語を耳にします。彼らが「欧米人の発音に似ていない」などと卑屈になることはありません。彼らは堂々と、しかも楽しみながら英語を話します。その発音には何やら威厳のようなものすら感じます。日本人が会話下手なのも、こういった19世紀の因習に囚われていることと無縁ではありません。我々は彼らにこそ学ぶべきだと思います。

註1これらの言語は「ラテン語崩れ」、すなわちラテン語がその土地に土着して成立したいわば「方言」だ。上流階級の社交言語としての誉れ高きフランス語が、もとは単なる「方言」だったとは...。

註2 彼にはもう一つ「前科」がある。天皇家に伝わる「三種の神器」の一つ「八咫鏡」を盗み見たというのだ。裏面には何と「ヘブライ語」で「我は在りて在るものなり」と書かれていたという。これが原因で最後は国粋主義者に暗殺されてしまうのだが...。三種の神器とは「八咫鏡(やたのかがみ)」・「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」・「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」だ。日本人なら名前くらいは覚えておいてほしい。

註3 古代ローマが唯一「頭が上がらない」のがこの古代ギリシャだ。黎明期には大使節団を派遣してギリシャ文化を学んでいる。ヨーロッパ版「遣唐使」だ。文字自体は「ギリシャ文字」でラテン語とは若干距離があるが、文法体系だけはなぜか「瓜二つ」。何せ「世界三大難解言語」の一つ故、いきなり突入するのは大変危険。ラテン語経由で入ったほうが無難だ。

註4 起源はギリシャ語。「キリロス」と「メトディオス」の兄弟がギリシャ文字をもとに作成、9世紀にロシアに伝えたといわれている。無論キリスト教布教のためだ。この兄の名が「キリル」の名の由来だ。もっともギリシャ文字とは似ても似つかぬように筆者には見えるが...。

註5 15~16世紀に起こった読み方の変化。これによって英語の「発音」と「綴り」の乖離は決定的なものとなった。それ以前はnameは「ナーメ」と読まれていたのだ(何とわかりやすい!)。原因は今でも不明。全人口の三分の一が死んだといわれる黒死病(ペスト)の為に知的階級が死に絶え、下層階級の間違った発音が世に出てきたからとも言われている。だとしたら恐ろしい話だ。本来であれば発音にあわせて綴りも変えるべきだったのだが、折悪くヨハネス・グーテンベルクの活版印刷で書籍が爆発的に広まり、修正が間に合わなかったという経緯(いきさつ)がある。


にほんブログ村 英語ブログ 英語講師・教師へ