「日本の教育は暗記教育だからダメなのだー!」とテレビなどで発言する愚か者が後を絶たない。「もっと創造性を養う教育をー!」などに至っては「西から上ったお日様が〜♬」と唄うのと同じ。これでは某ギャグ漫画ではないか。最後に「これでいいのだー!」とでも言うつもりか......


冗談が過ぎた。話をもどす。「暗記」とは言うまでもなく「過去に蓄積された知識を頭に詰め込む」作業である。料理人が「食材」を仕入れるのと同じことだ。だが彼らは「食材無しで料理を作れ!」と言っているのだ。理屈にも何もなっていない。何かを作り出すには必ず「材料」がいる。「無」から「有」を創り出せるのは「神」だけだ。子供に「神になれ!」とでも言うのか。しかもこの「材料」とは、「先人たちの血と汗と努力の結晶」なのだ。それを「そんな物は創造の妨げになる! 学ぶな!」と言っているのである。

Newton 「暗記」が何故重要なのか? それはアイザック・ニュートンの言葉を借りれば「巨人の肩に乗れる」からだ。「巨人」とは言うまでもなく「先人たちの遺産」である。「彼らの知識を習得すれば、労せずして我々はより遠くを見ることができる。」とニュートンは言っているのだ。具体例を挙げよう。「エジソン vs テスラ」の「直流・交流」論争だ。テスラとは「磁束密度」の単位や「テスラ・コイル」、果てはイーロン・マスクの会社名に迄その名を残す、セルビアの生んだ天才科学者ニコラ・テスラである。効率的送電システムとしてエジソンは「直流」を、テスラは「交流」を主張した。どちらが正しかったかは歴史の示す通りである。そもそもこの二人は生い立ちからして全く違った。エジソンは小学校すらまともに出ていない。一方テスラはバリバリの「大卒(グラーツ工科大学)」だ。最初からスタート・ラインに差がありすぎたのだ。自ら築き上げた地位と名声を失うことを恐れ、エジソンは徹底的にテスラの発明を「潰し」にかかった。「発明」よりも「権力闘争」に向いていたようだ。「エジソンは〜偉い人〜♬」と、ちびまる子ちゃんは「エジソン讃歌」を高らかに歌い上げる。だが残念ながら、「そんなの常識〜♬」ではないのだ。130年前に人工地震を起こしてニューヨークっ子の度肝を抜き、送電線なしで全世界に電気を供給するシステムすら考案していたマッド・サイエンティスト「ニコラ・テスラ」。その発明が葬り去られたことにより、人類の科学の進歩は100年遅れた。「先人たちの遺産」を軽んずると、このような醜態を曝(さら)すことになる。


「暗記脳」と「論理脳」

これも筆者の勝手な造語だが、小学生の記憶力は「凄まじい」の一語につきる。明らかに脳が「この時期には暗記をせよ!」と指令を出しているのだ。具体的には「言語習得」が挙げられる。如何に難解な言語を母国語として生まれ落ちようとも、子供は必ずその言語を習得する。古代ギリシャ語や古代ヘブライ語を勉強していて痛感する。「これほど難解な言語を操る民族が、かつてこの地球上に存在したのか...」と。一方「論理能力」は「いまひとつ」だ。「理屈で説明した方が分かりやすいだろう...」と思うのは我々大人の発想である。彼らにとって「論理」は「苦痛」でしかない。「えーん!そんなこと言われてもわからないよ!要するに暗記しちゃえばいいんでしょ?」と来る。そしてその通りになるのだ。

これも自身の例で恐縮だが挙げておく。筆者は中1の時、歴代天皇の名前を「昭和天皇(124代)」まで全て暗記した。今は亡き父の「戦前の子供たちは天皇陛下の名前をすべて暗記したんだ!」という発言が発端だった。神武(じんむ)・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)...というアレである。「それに引き換え最近の若いもんは...」という、メソポタミアの粘土板にすら刻まれていると言われる「人類不朽の名文句」が続くのだが、「どうせ口から出まかせだろう...」と思ったものの、いささか興味を覚えたので自分の体(頭?)で「人体実験」を試みた。しかしこれが、あれよあれよという間に全員の名前を暗記できてしまったのだ。すべて文字に起こせるわけではないが、口では言えるのだ。ポイントは「音(リズム)」であった。好きな曲のメロデイーも、イントロさえ思い出せば後はすらすら口ずさむことができる。以来半世紀が経つ。通しで言えるかどうか試したこともなかったが、新元号(令和)への改元を機に確認してみた。失念している部分も数か所見られたが、ものの10分ですべて諳(そら)んじることができるようになった。

因みに歴代天皇の名前は日本史受験の方は(部分的にでも)暗記しておいた方がいい。某私立大学の日本史の問題で、天皇家と藤原氏の絡みの系図がもろに出題されたこともある。

だが中2あたりで状況は一変する。「論理的説明」を要求するようになるのだ。「暗記しろよ!」と言うと、「何でそうなるのか分からなかったら暗記できないじゃないですか!」となる。「暗記脳」から「論理脳」に移ったことがわかる。と同時に「反抗期」なるものが始まる。「なんだ!大人って、言ってる事とやってる事が全然違うぞ!」というわけだ。「ウソがばれてしまう」のである。裏を返せば「反抗期」とは「論理的に物事が分析できるようになったこと」の証(あかし)でもあり、むしろ喜ぶべきことなのだ。 これらの理論を教育現場に導入するとどうなるか。中1あたりまでは「暗記を徹底してやらせよ」ということになる。「創造性を養う教育」はそれ以降でいい。と言うより「創造性」などというものは、知識量がある一定の「閾値(いきち・しきいち)」に達すれば自然発生的に湧いてくるものであって、他人が強制してどうこうなるものではないはずだ。小学校で「創造力の養成」など「生物学的に噴飯もの」なのだ。

ここで「自然発生的に...」と筆者は書いた。だがそれには「ある条件」が必要となる。「時間」である。毎日仕事や勉強に追いまくられているとリラックスできない。いいアイデアも出てこない。所謂「α(アルファ―)波」が出てこないからだ。「アインシュタインは学校をさぼって丘の上から眼下を走る列車を眺めていて相対性理論を思いついた...」と言うが、そういった「ぼーっと物思いに耽(ふけ)る時間」が必要なのである。ただし「だからあなたも学校をさぼっていいよ!」ということにはならない。「アインシュタインは劣等生で...」という文脈で語られることが多いこのエピソードだが、彼が「勉強ができない」のと、諸君が「勉強ができない」のとでは「次元が違う」のだ。

またリラックスに関連して、次の役に立つ話も聞いて欲しい。難解な問題に嵌(はま)ったら、諸君ならどうするか? こういう場面で「絶対に解いてやる!」とついつい意固地になる人が多い。しかしこれで解けた試しは筆者の場合は一度もない。そこで筆者のお勧めは「やーめた!」である。「難解な問題に嵌(はま)ったら、放っておいて他の問題を解きにかかれ!」ということだ。アイデアに詰まったら一旦「その場から離れる」のだ。他の問題を解いていると、「あれ? さっきの問題そういえば...」となる。人の名前を「度忘れ」した時なども同様だ。これなら受験生諸君も経験があろう。無理やり思い出そうとして、思い出せたことなどただの一度もないはずである。「井上陽水」の歌ではないが、「探すのをやめたとき見つかる〜♪♪」のだ。古代ギリシャに文明の華が咲き誇ったのも「スクール(学校)」の語源となった「スコレー(暇)σχολη」があったからだ。労働はすべて「奴隷」がやっていたからである。「奴隷制の是非」はまた別問題だ。受験生諸君も「暗記」だけは徹底してやっておいて欲しい。この時期暗記したものは、生涯忘れることはないからだ。


にほんブログ村 英語ブログ 英語講師・教師へ