茗渓予備校通信KIRI

2011年11月号

高校での英語による英語教育はほんとうに可能なのか

文科省の『新指導要領』では、高校の英語の授業は「授業を実際のコミュニケーションの場面とするために授業は英語で行うことを基本とすること」とあります。この措置は、高校においては平成25年4月1日から年次進行により段階的に適用すると言っています。残す期間はあと2年弱しかありません。

内容をよく読むと、文法事項は日本語を交えていいとか、生徒の力によって英語のレベルを適宜考慮するような説明になっていますが、それにしてもこんなことが日本人の英語教師だけで本当に可能なのでしょうか。私には、予備校や高校の現場で教えていて、現状ではとてもできない相談だと思っています。

当の文部官僚の中でも、すべての高校生にこんな高度なレベルを期待しているものはほとんどいないようです。すでに英語による英語教育を実践しているA学園のような例もありますが、どの程度の効果があるのか疑問に思えます。とくに今の日本のような筆記試験主体の現状を考えると頭をかしげたくなります。

東大教授の菅原克也氏は『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書)の第2章「英語を英語で教えることの是非」の中で、大学の授業でさえ英語で知的レベルの高い内容の授業を展開することは英語では無理だと指摘しています。こんなことをすれば日本人の知性をレベルダウンさせてしまうとまで言っています。また、別の視点から、衝撃的な著作『日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で』(水村美苗氏)は「国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと」を提唱しています。多くの日本人はもっと国語の力を磨くべきだと強調しています。

もし世界(英語が普遍語となった世界)と渡り合える人材を本気で養成するなら(いやせざるをえませんが)、外国人教師が2で日本人教師が1の比率で英語教育が出来る体制を本気で考えるべきではないかと私は思っています。その場合は、日本の大学だけでなく海外の一流大学へ一直線という選択もあります。