茗渓予備校通信KIRI
2012年7月号
ゼミの窓
日本語教育はどこで行われているのでしょうか。
日本人であるということは、日本語でものを考えるということです。英語を和訳していて、その日本語がよく分からない生徒がいることにときどき驚かされます。とりわけ、いわゆる、とはいえ、から始まり、普遍・特殊といった漢語、ロゴス・イデオロギーなどという外来語に至るまで数えあげればきりがありません。
脳を鍛えるには、いい本を読むのが一番
ものを考えるのは、論理的に筋道をとおした思考ができる前提です。パスカルは「人間は考える葦である。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。」と言って、人間の尊厳は考えることの中にあると主張しています。その考える手立てである日本語があいまいでは外国語学習も中途半端なものになりかねないと危惧しています。
生徒を選ぶな、生徒に選ばれよ。
教師の信条のひとつと考えています。一人ひとり個性の違う生徒たちに合わせたつき合い方、課題の出しかた、発問の方法、これもコーチングの要諦ではないでしょうか。生徒から学ぶとは、こうした一面もあるように思っています。教師と教材の関係も、医師が薬を選び調合する手つきと似ていると思います。
また、こんなことも考えました。西郷隆盛は、相手がかるく叩けばかるく響き、相手が強く打てば強く応える人物だと言われています。生徒が強く迫ってきたとき、自分にはどんな対応ができるのだろうか、と。