茗渓予備校通信KIRI
2013年10月号
授業は英語で行うことを基本とする
今年から導入された「新教育課程」の第3款には、このように記載されています。実態はどうでしょう。私どもの予備校に通ってこられる高校生に聞いても、ほとんど英語で指導がなされているとは思えません。私の知りえる範囲でも、音声やアクティビティを重視する指導と日本語を用いて精読させる指導のはざまでいろいろ苦労されている様子がうかがえます。
そもそも英語で英語の授業のできる先生が、この日本でどの程度おられるのでしょうか。ハワイ大学教授の吉原真里さん(アメリカ=アジア関係史など)は「50人いるかどうかも疑問である」と言っています。これは教える側の能力の問題ですが、一方で、学ぶ側の問題として高度な論理思考が疎かになるという学者もいます。菅原東大教授は大学の授業でさえ英語で知的レベルの高い内容の授業を展開することは無理だと言っています。
でも、否応なくグローバライゼーションの波は極東の地まで情け容赦なく押し寄せています。一部の日本人は、英語など外国語で自在に渡りあえるコミュニケーション能力を身につける必要があります。学問の世界(特にハードアカデミズムの世界)では言うに及ばず、経済界でも政治の世界でも、そうした一部のエリートは必要でしょう。西ヨーロッパに半世紀近く生活している私の知人は、ひとつ一つの西洋語をネーティブ並みに習得してきた体験を踏まえ、外国語が自在に使えるということは、「新たな音韻体系、韻律体系、語彙体系、文法体系に加えて当該言語での思考方法とコミュニケーション能力を獲得することです。既得言語との往復翻訳を排除するのですから、新しい言語人格がそこでめばえます。しかし、既存の言語人格との統合失調は起こりえません。」と書いています。津田梅子女史のように日本語が不確かになることはないようです。「多重言語者になり損ねる人たち」の仲間入りをしている私などには、とてもまねのできない芸当です。しかし、英語を教える教師ならば、この域を目指すのがプロとして(飯の種としている職人として)当然だろうと自戒しています。
さは然りながら、世の英語教師はそれでも課題に立ち向かわなければなりません。生徒は待ってはくれません。同時通訳の草分け的存在である國弘正雄氏は、英語上達の道は「只管朗読」(道元禅師の只管打座のようにひたすら朗読に努める)あるのみ、英作文は「英借文」(基本文を当てはめる)で結構、と言われています。プロの同時通訳の人たちも、これに類したことをやっているようですから、「なり損ね」の英語教師にも道=方法はあると考えましょう。生徒たちが、どんどん私たちを追い抜いて行ってくれることを願いながら。