今「古代ヘブライ語」で旧約聖書を読んでいる。古代ユダヤ人(現代ユダヤ人とは別民族)の言語である。イエス・キリストやモーゼ、ダビデやソロモン…・と言えば、歴史に疎(うと)い方でも大体のイメージが湧くだろう。実に興味深い言語であり、考えさせられることも多い。英語・ラテン語・ギリシャ語は同じ「印欧(インド・ヨーロッパ)語族」だ。故に基本構造は共通していた。しかし古代ヘブライ語は全く違った表情を見せてくれる。その最たるものが「時制の欠如」だ。「旧約聖書」を「古代ギリシャ語」で読んでいた時、その「時制」に強烈な違和感を覚えた。和訳で過去形になっているのに原文では未来形になっている。またその逆もある。「新約聖書」を読んでいた時にはこんなことは無かった。原文と和訳が合わせ鏡のようにピタリと一致していた。古代ヘブライ語を学習してゆく過程で、この原因が旧約聖書の原文である古代ヘブライ語にあることを知った。新約聖書は古代ギリシャ語で書かれているが、旧約聖書は古代ヘブライ語で書かれており、それが古代ギリシャ語に翻訳された。所謂「セプタギュンタ(70人訳聖書)<Septuaginta>」である。ギリシャ語とヘブライ語ではそもそも時制に対する概念が全く違うので、「完了⇒過去形」「未完了⇒未来形」と直訳してしまうとおかしなことになってしまうのだ。当時の訳者たちが頭を抱えたことは想像に難(かた)くない。
そもそも古代ヘブライ語には「時制が無い」。「過去・現在・未来(昔こんな歌詞の歌謡曲があったが…)」という、あの「時制(tense)」である。存在するのは「完了」と「未完了」の2つだけ(あとは「分詞」というのがあるのだが、紙面の関係で割愛する)。これを「アスペクト(aspect)」と呼ぶ。「面・側面」という意味だ。同じ行為でも、どの側面で切り取るかで見え方が変わってくる。マスコミの「切り取り記事」と同じである。文法用語では「相(そう)」の訳語が充てられている。一方英語には「テンス(時制)」も「アスペクト(相)」も存在する。「現在完了形」は「テンス」は「現在」であり「アスペクト」は「完了」となる。このように英語では「テンス」と「アスペクト」を組み合わせて表現する。しかし古代ヘブライ語には「テンス」が無く、「アスペクト」だけが存在する…ということなのだ。「そんなバカな!じゃあ現在か過去かはどう判断するんだ!? 」と思われるだろう。しかし別にこれで不自由を感じることはない。日本人なら分かるはずだ。何故なら我らが日本語にも「時制が無い」からだ。「〜(し)た」や「〜(だっ)た」の「た」は「過去」ではなく「完了」なのだ。一方「〜(す)る」は「未来」ではなく「未完了」である。「東京へ行く前に横浜に寄った」では、過去の話なのに「行く」と、「まだ行っていない」かのように表現する。それで我々は何の違和感もないし、「東京へ行った前に横浜に寄った」などと言えば逆に訂正されるだろう。何故こんなことになるのか? 古代ユダヤ人や我々日本人の「時制」の感覚はどうなっているのか?
欧米人は時間を「過去⇒現在⇒未来」と、一直線に流れゆくものだと考える。そして彼らは「時の流れ」という名の「船」に乗っている。否応なく過去から未来へと流されて行く…と考える。川上を振り返れば「過去の自分」がおり、川下には「未来の自分」の姿が見える。それらは「今の自分」とは別人である。従って某有名ハリウッド映画などでは、現在と過去の主人公同士が「あわや鉢合わせ…」というスリリング(コミカル? )なシーンが展開することとなる。
では我々日本人の「時制観」はどうだろう。それには「仏教思想」が参考になる。「時間は過去から未来に流れるのではない。未来から過去に向かって流れてゆくのである」と仏典は説く。全くわけが分からない。まるで「禅問答」である。そこで筆者が無い知恵を絞って考えてみた。以下はその解釈だ。我々は「現在」に座して動かない。そして時間は我々の目の前を、あたかも「川の流れ」のように「未来から過去に」流れてゆく。「ゆく河の流絶えずして、しかももとの水にあらず…」と鴨長明の「方丈記」にある通りだ。「東京に行く前に…」と表現するのは、我々がその当時の情景をありありと心に思い浮かべているからだ。つまり「過去とは単なる記憶」なのである。「未来」という言葉が全てを物語っている。文字通り「未だ来ていない」だ。我々は「不動」であり、「未来」の方からこちらにやって来る…ということである。
では英語には類似の感覚は皆無か? …と言えばそうでもない。Historical Present「歴史的現在」なる表現法が存在する。過去の出来事を現在形で表現する用法で、臨場感を出すため小説などでしばしば見られる修辞法の一種だ。古代ギリシャ語にも日本語にも無論存在する。欧米の「時制観」は確かに論理的である。しかしどこか無理があることを彼らも本能的に嗅ぎ取っているのだ。では本題に入ろう。果たして「時の流れ」などというものが、本当に存在するのだろうか? 「あるに決まってるだろ!俺のチャリなんか錆だらけだー!」と、ある人は言うだろう。確かに鉄は錆びる。しかしそれは「時が流れている」からではない。単なる「酸化」である。実際インドのデリーにあるアショカ王の鉄柱は、2300年を経た今も全く錆びていない(実際はアショカ王ではなくチャンドラ・グプタ2世の建造で、1600年ほど前だとのこと)。鉄柱の周囲だけ時の流れる速度が違うのか? またある人は言うだろう。「だって人間年を取るだろ!」と。しかし「時が流れている」から年を取るのではない。単なる「細胞分裂」や「代謝速度」の違いである。昔「スタートレック・ボイジャー」なるアメリカのテレビ・ドラマがあった。その中で「時の流れる速度が全く違う生命体」というのが登場する。宇宙探査船ボイジャーが、ある惑星の上空にボバリング(滞空)している。その星の知的生命体の進化を観察する為だ。ところがこの生命体、もの凄い速度で進化してゆく。石器時代人が見る見るうちに文明を築き、産業革命を成し遂げて核兵器を開発、ボイジャーめがけて核ミサイルを撃ち込んでくる…という、信じられない展開となる。さらに彼らがボイジャーに乗り込んでくる。船内はパニックだ。彼らの姿は肉眼では全く捉えられないし、彼らの目には地球人は石像のように止まって見える。それでも何とかコミュニケーションが取れてしまうあたり、やはり「ドラマ」なのだが、話し合い(? )の結果、彼らには無事お引き取り願う…という大団円(大円団は誤用)だ。こういったドラマを制作できるあたり、アメリカという国の底力を感じる。今の日本人には決して作れないし、また見ることもないだろう。
このドラマを見終わった後、「時の流れとは何なのか? 」と考え込んでしまった(柄にもなく)。結局「時の流れ」を裏付けるものは何もない。「時の流れ」とは畢竟(ひっきょう=つまり)「物体の移動」である。物体が移動するから我々は「時が流れた」と「錯覚」する。物体移動のないところに時の流れは存在しない。そこで筆者と同じ結論に達した先人が過去いたのでは…と調べてみた。筆者程度の頭で考えつく事である。先人たちが考えなかったはずはない。そして古代ギリシャの哲学者・アリストテレースが、同じ結論に達していたことを知った。だが2000年後に登場するアイザック・ニュートンは「絶対時間」を提唱。「物体がこの宇宙に何も存在しなくても、それでも時は流れている」とした。一方アインシュタインは「相対時間」を説く。「時の流れは存在する。しかしそれは観測者の移動速度や重力場によって変化する相対的なものである」…と。さらに最近話題の本「時間は存在しない」の著者は「『時の流れ』は『記憶』の作り出す錯覚であり、その正体は『物体の移動』である。」とし、その原因を「エントロピー増大の法則(熱力学第2法則)」に求めている。「エントロピー」とは「無秩序さ」だ。水槽に仕切りがあり、水とインクが入っている。仕切りを取れば両者は混ざり合う。秩序ある状態から無秩序な状態へ移行する。だがその逆はありえない。このように、この宇宙は常にエントロピーが増大(秩序から無秩序へと移行)してゆくものだ…とするのが「エントロピー増大則」である。筆者は同法則には懐疑的(それを凌ぐ何らかの別の力が存在する…という意味で)だ。「生命の進化」など、もろにこの法則に抵触(ていしょく)するからだ。だが興味深い説には違いない。時間とは何か? オックスフォードやケンブリッジの入試で出題されそうな「お題」だが、受験生諸君も考えてみては如何だろう。
PS)「歴史的現在」に下線を引いた。確認して欲しい。過去形に変えてみると違いがはっきりするだろう。
執筆:鈴木先生(JUKEN6月号掲載)