wash--washed--washed
と語尾に-ed
をつけるものを「規則動詞」。それに対してbegin--began--begun
などと変化するものを「不規則動詞」と呼んでいる。しかしこれは厳密には「間違い」だ。これらはちゃんとパターンが存在するからだ。そのパターンごとにcut--cut--cut
(A--A--A型)、come--came--come(A--B--A型)
、begin--began--begun
(A--B--C型)、buy--bought--bought
(A--B--B型)...などとまとめられている。そしてそのパターンさえ暗記すれば、その場で思い出すことができる。これは立派な「規則動詞」ではないか。特に前者を「弱変化動詞」、後者を「強変化動詞」と呼ぶ。では英語に不規則動詞は存在しないのか? 実は2つだけ存在する。それが「be動詞」と「
go
」だ。be動詞のam / are / is / was / were
はどう見ても「赤の他人」である。これはそれぞれ全く別の古英語の単語に起源を持つからだ。ただbe動詞の追究は後日を期す。ラテン語でもギリシャ語でも、be動詞はかなり特殊な変化をするからだ。話をgo-wentに絞る。昔はgo
にはgoed
という過去形があった(後述)。went
にはwend
という原形があった(今も辞書に載る)。しかしgo
は子を、went
は親を亡くした。そこでgo
とwent
の間で目出度く「養子縁組」が成立! 血がつながっていないから顔は全く違うわけだ。このように全く縁もゆかりもない単語を引っ張ってくる手法をsuppletion
[サプリーション]「補充法」と呼ぶ。これは動詞に限った話ではない。good--better--best
やbad / ill--worse--worst
などがお馴染みだ.........と、ここまでは有名な話だ。ちょっと英語に詳しい人なら誰でも知っているし、ネットをググればすぐに出てくる。問題の本質はそんなところにはない。問題は(1)「なぜ養子縁組せざるを得なくなったのか?」。そして(2)「養子としてなぜ
went
に白羽の矢が立ったのか?」だ。しかしこれがどこを調べても出てこない。ドラマ「相棒」の杉下右京ではないが、筆者は「細かいことが気になって仕方がない性格」なのだ。では「お家断絶」の危機に瀕した大名家の家老になったつもりで考えてみよう。(1)で考えられる理由は2つしかない。(1-a)「その家にお世継ぎができなかったあるいはできても不幸にして夭折した」と(1-b)「お世継ぎはいたが志村けんみたいなバカ殿様だった」だ。(2)の答えは無論「養子が非常に優秀であった」となる。(1)については(1-a)が真相のようだ。ある言語学者の先生によれば「
go
にはもともと過去形が無かった。そこでgoed
という『子』を無理やり作った。しかしこれは人々の間で定着しなかった」ということらしい。「もともと過去形が存在しなかった」などと言うとびっくりされるかも知れないが、ラテン語・ギリシャ語ではこういったケースは珍しくない。特にギリシャ語ではその数はかなり多い。では何故goed
は定着しなかったのか?まず「発音がし辛かった...」という説がある。何か説明できない現象があると決まって持ち出される説である。しかし筆者はこの説に与(くみ)しない。そんな理由でgoed
が滅んだというのなら、good
もgod
もgoat
もすべて滅んでいたはずだからだ。また-ed
をつけると発音し辛い過去形は他にもあったはずだがgo
以外にはそんな例は見当たらない。やはりこれは「go
特有の現象」と捉えるべきであろう。一方
goed
はgod
と「発音がかぶる」ので忌避された...という説もある。筆者はこちらの説を推(お)す。「神の名をみだりに唱えてはならない」と「モーゼの十戒」の第3戒にもある。故に経験なクリスチャンの中にはOh My God!と言わず、Oh My!で止める表現もあることはご存知の通りだ。「オーマイ・スパゲティー」などというのも昔あった。某有名私立大学の物理学教授O氏のCMで一躍周知された。では何故「神の名をみだりに唱えてはならない」のか? これは「神様の名を唱える時はどういう時か?」を考えればわかる。例えば「神様! 年末ジャンボ10億円! お願い!」だ。要するに神様に「おねだり」する時である。神の前にかしずいてはいるものの、腹の底では「パシリ」に使おうというのだ。挙句「この神様ご利益ない!替えるわ!」だ。日本人はいつから斯(か)くも傲慢になったのか。欧米人に「日本人は無神論」と言われても仕方あるまい。では(2)「何故
went
が『養子』とされたのか?」だ。こちらは著名な言語学者の先生でも「白旗」を掲げていらっしゃるようだ。古英語は文字記録自体が極端に少なく、それ以上辿れないからだ。縄文時代の日本人がどんな言葉を話していたかが分からないのと同じである。しかし英語は日本語と事情が異なる。「親戚」がいくらでもいるからだ。祖父母やおじさん・おばさんの罹った病気を調べれば、自分が将来どんな病気に罹る可能性が高いか予想できる。それと同じだ。ではギリシャ語的視点からこの謎を解明してみよう。ギリシャ語には(3)「現在形や過去形がもともと無いケース」と(4)「存在してはいるが敢えて他の動詞で代用するケース」がある。(3)を「片輪動詞<verba defectiva>
」と呼ぶ。さしずめgo
はこちらに該当するだろう(「片輪」は今では放送禁止用語だが、れっきとした学術用語なのでそのまま引用する。ご容赦願いたい)。そして「養子」として採用された動詞にはある共通点がある。「その時制(過去)に適したニュアンスを元々持っていたから」というものだ。όραω=horao
[ホラオー]「見る」で説明しよう。panorama
「パノラマ(パナホラマより・『すべて<pan>が見える』が原義)」で英語にも生き延びている単語だが、この動詞は「アオリスト(過去形)」にειδον=eidon
[エイドン]という全く別の動詞の過去形をもってくる。これはοιδα=oida
[オイダ]「見る」の過去形で、「イディア論(プラトーン)」や「アイデア(考え)」の語源となった。「イディア」とは「心の目をもって初めて見ることのできるもの」の意味である。故にidealで「理想的な」の意味となる。では何故όραω
はοιδα
の子であるειδον
を「養子」に迎えたのか...といえば、このοιδα-ειδον
父子には「見る」に加えて「知る・分かる」の意味もあるからだ。「過去形」とは「ある動作を最後まで完了したこと及びその結果」を表す。「(本を)最後まで見た」⇒「(よく)分かった」となる。ειδον
の意味にぴったりだ。εσθιω=esthio
[エスティオー]「食べる」も同様だ。過去形にはεφαγον=ephagon
[エファゴン]を使う。語頭のε-
は過去形を作る際に着ける「印」で英語の-ed
に相当するからこれを除外すればφαγον
となる。これは単に「食べる」ではなく「平らげる・最後まで食べ尽くす」という意味だ。故にこちらもεσθιω
の過去形にふさわしい...と判断された。このφαγον
だが、macrophage
「マクロファージ(大食細胞)」などとして生物の教科書にも登場する。死滅した細胞の断片や、細菌などの異物をばくばく食べてしまう「血中の掃除屋」だ。μακρος=macros
[マクロス]はμικρος=micros
[ミクロス]「短い・小さい」の反対語で「大きい・長い」の意。「マクロ経済学」「マクロ経済スライド」などでお馴染みだ。上記2例が
go--went
の説明にも使える。wend--went
はwind
「風」/ wind
「(くねくねと道が)曲がる・発音は[ワインド]」/ wander
「放浪する(er
を取ればwand
が現れる)」などの同根語。つまりgo
「(家を)出て行った」その結果最後には「放浪を続け」「風に吹かれ」「道なき道を歩きまわる破目になった」...という、新約聖書の「放蕩息子の帰宅」を地で行くような単語であり、まさにgo
の過去形にふさわしい意味を持つからではないか...と推測できるのだ。最後に、これは飽くまで「筆者の仮説」であることをお断りしておく。
wentに関しては、私が大学生だった時に、英語英文専修の先生から直接教えてもらったところでは、went文化圏とgoed文化圏があり、何かの抗争があった時にwent文化圏が凌駕したということでした。確かwentはロンドンの方にあったようです。記憶に残るものだけですので、詳しくははっきり言えませんが。