be surprised at ~
やbe interested in ~
というものだ。実はこれらは「受動態」ではないし、at/in
はby
の代わりでもない。ラテン語・ギリシャ語で言うところの「中動態(中間態)」と呼ばれるものだ。surprise
「驚かせる」で説明しよう......The news surprised me. | 「その知らせは私を驚かせた」 | (能動態)...① |
I was surprised at the news. | 「私はその知らせに驚いた」 | (中動態)...② |
I was surprised by the new. | 「私はその知らせに驚かされた」 | (受動態)...③ |
まず断っておく。
surprise
にはbe surprised at
だけでなくbe surprised by
もある。ある大学の入試問題で選択肢にat
とby
の両方が掲載されていたものがあったが、これははっきり「出題ミス」である。この仕事を始めたとき先輩に「問題作成上の注意点」の一つとして筆者はまず教わった。本題に入る。まず①と③は問題なかろう。問題は②だ。「驚く」だから「能動態」のようだが形は「
be + pp
」で「受動態」となっている。こういった動詞を「デポーネント動詞<verbum deponens>
」と呼び、ラテン語では「形式所相動詞」、ギリシャ語では「異態動詞(能動態欠如動詞)」と訳され「形は受動態だが意味は能動態」と説明されている。英語に「中動態」という分類は無いのだから、「能動態」つまりsurprised
を一つの「形容詞」と捉えるべきであろう。最近の中2英文法でもこの解釈が採用されている。「受動態」が未習な故の暫定的措置かも知れぬが「一歩前進(真実に近づいた)」とも言える。実は昔は「受動態」は無かった。そして「能動態」と「中動態」が「対立概念」として存在していた。その後「受動態」が登場した。やがて「中動態」は忘れ去られ、あたかも「能動態」と「受動態」が対立するものとして認識されるようになったのだ。参考書には①⇒③⇒②の順序で登場したように書かれているが、これは間違いである。この「中動態」が異様に多いのが「古典ギリシャ語」だ。筆者は新約聖書の「ルカによる福音書
<ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ>[カタ ルーカン]
」を先日何とか読破した。5年半の歳月を要した。ラテン語の「旧約聖書・創世記<GENESIS>
」を8ヶ月で読破したことを考えれば、いくら何でも「かかりすぎ」である。「世界三大難解言語(他の2つは古代インドの『サンスクリット【梵語】』と、何と我らが『日本語』だそうな...)」の一つにノミネートされる難解さに加え、「へブル人への手紙<ΠΡΟΣ ΕΒΡΑΙΟΥΣ>[プロス ヘ(エ)ブライウース]
」と並んで「新約の白眉(はくび:最も優れたもの)」とされる格調の高さだ。何度も挫折を繰り返しているうちに5年以上の歳月が流れた。その筆者の行く手を悉く阻み続けたのがこの「中動態」であったのだ。兎に角何でもかんでも「中動態」だ。「受動態」と活用がかぶるものも多く、最初は面食らった。「どうしてこれが受け身になるんだー!」と頭を抱えた。「独学の悲しさ」だ。ερχομαι[エルコマイ]= go /γιγνομαι[ギグノマイ]= be born /καθιζομαι[カシゾマイ]= be seated /δεχομαι[デコマイ]= accept /λουομαι[ルーオマイ]= bathe /μαχομαι[マコマイ]=fight
などなど...。あらゆる動詞が「中動態」を取るのだ。では「中動態」とはどういったニュアンスを持つのか? 大きく分けて2つある。一つは「どういうわけか分からないが、いつのまにか~してしまう」というニュアンスだ。
He is interested in history
「彼は歴史に興味がある」で考えよう。「受動態」として考えればinterest
は「興味を持たせる」だから「歴史によって興味を持たされる」⇒「歴史に興味を持つ」でいいのだが、果たして「興味を持たせた」ものは「歴史」なのか?否(いな)、むしろ「言葉で表現できない何らかの力・状況(前世の記憶かも...)」が存在し、それによって「歴史への興味」が湧き上がってきた...と考えるべきだろう。筆者も含め「歴史オタク」は日本人には多い。だが彼らにその理由を尋ねても無駄である。何故だか分からないが引っ張り込まれてしまう...からだ。イギリスの登山家George Herbert Mallory(ジョージ・ハーバート・マロリー)風に言えばBecause it is there.
「そこに山があるから」とでもなろうか...。古代の人々もそう考えた。これが「中動態の心」である。また極言すれば「人間に自由意志など無い」ということでもある。「中動態」と聞くと、筆者は必ず西行法師のある歌を思い出す。何事の おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
<1185>
」らしい)。本名は佐藤義清(のりきよ)。れっきとした藤原氏の末裔であり朝廷警護の「北面の武士」である。故あって世を儚(はかな)み出家。漂泊の僧侶・歌人として多くの歌を残す。文武両道に通じ容姿端麗。さらに地位や出世には何の興味も示さぬその生きざまは多くの人々の共感を呼んだ。源平時代のドラマには必ず登場し、多くの名優が西行を演じている。最近(でもないが)では松山ケンイチくん主演の大河ドラマ「清盛」において二枚目俳優・藤木直人くんが西行を演じ、清盛の親友...という設定だ(実際面識はあったようだ)。これはその法師が伊勢神宮を参拝した際詠じた歌である。無論伊勢神宮には「天照大神」が祭られている(『内宮』の話だが...)。碩学の法師がそれを知らないはずはない。しかし彼はそれ以上の「何か言葉にするのも憚られるような存在」を感じたのだ。こういった定義を理解して再び所謂「by
以外の前置詞を用いる受動態」を眺めてみると興味深いことに気がつく。be pleased with ~
「~が気に入っている」/ be satisfied with ~
「~に満足している」/ be disappointed at ~
「~に失望している」/ be concerned with (about) ~
「~に関心がある・心配だ」など、「心情」を表す表現ばかりである。またI was born in 1958.
「1958年生まれだ...」という不可解な表現の謎もこれで解ける。「『生まれた』じゃなくて『生まれさせられた』んだよー!」と中学の英語の先生から教えられた記憶があるだろう。ただし「親によって...」ではなく「何か分からない力によって...」ということだ。しかしやがて「そんな非科学的な!」「責任の所在を明白にしろ!」となり「受動態」が生まれた。もう一つは「再帰代名詞」的用法がある。「自分自身に~させる」⇒「~する」というものだ。例えば
He seated himself.
「彼は自分自身を座らせた」⇒He was seated.
「(自分自身に)座らされた⇒座った」などがある。be opposed to doing
「do
することに反対する」も、もとはoppose oneself to doing
「自分自身に反対させる」からきている。この用法には「自分のために(利益)」というニュアンスが潜む...・と説明されている。しかしこちらも元を辿れば「自分の『利益』になりそうだからついふらふらと...」ということだ。不利益な方向に動く人間はいない。繰り返しになるが「人間に自由意志など無い」のである。この「中動態」の形は高校英語の熟語表現で夥しい数登場する。/ be convinced of ~
「~を確信している」/ be related to ~
「~に関係がある」/ be involved in ~
「~に巻き込まれる・関係する」/ be absorbed in ~
「~に没頭している」など数に限りがない。「何でこれが受動態なの?」と諸君らも怪訝に思われたことだろうが、これらは実は「中動態(≒能動態)」だったのだ。また法師の歌を紐解くまでもなく、我らが日本語もこの「中動態」の宝庫である。「昔のことが思い出される...」など、「~れる・られる」が「受け身」のみならず「自発」にも使われることはご存知の通りだ。