

次にアフリカ大陸だ。東アフリカは英語が問題なく通じる。どんな奥地に行っても英語は通じた。大英帝国の植民地だったからだ。一方西アフリカはフランスの植民地だったから全く通じない。サハラ砂漠2500kmを約1か月かけて縦断したが、英語を話す人間に出会うことは遂になかった。途中サハラ砂漠の真ん中でマラリアが再発した。安ホテルの一室でうんうん唸っていた。「泣きっ面に蜂」で足をサソリに刺された。一度ならず二度までも...だ。脛が丸太のように腫れあがった。地平線に沈みゆく夕日を見ながら正直「死」を覚悟した。しかし人間なかなか死ねないものだ。「マラリア・タブレット」を胃に放り込み、数日横になっていると熱が下がって歩けるようになった。そこで何とか中国大陸と同じ広さのこの砂漠を脱出することに成功したのだ。
次はヨーロッパ。地中海沿岸の「ラテン諸国」がまったく英語がダメ!ギリシャ(ここだけはギリシャ民族)、イタリア、スペイン、ポルトガルだ。イタリアではエジプトで拾ったマラリアが発病し、病院に担ぎこまれた。「もうダメだ!救急車を呼んでくれ!」と、途中で知り合ったM氏に助けを求めた。彼は筆者より一つ年上の、S工大・少林寺拳法部の統制部長だ。筆者も空手をやっていたので妙に馬が合い、しばらく一緒に旅をしていたのだ。だがやって来たのは救急車ではなくパトカーだった。病院ではさらに困った。知的職業であるはずの医者までが、英語が一言半句も話せない。押し問答の挙句、何やら黄色い液体を大皿いっぱい飲まされ、筆者は深い眠りについた。翌朝はなぜか気分爽快。ケロッと治っていた。名医であることと英語の能力は無関係だと分かった。さて元気になったはいいが、次の不安が頭をよぎった。「治療代」だ。貧乏旅行者の筆者にそんな大金あるわけない。そこで二人で「脱走」を計画した。窓を開けて確認したところ、屋根伝いに逃げるのは不可能だとわかった。そこで我々が立てた計画は、医者や看護師が来たら彼らを得意技でそれぞれKOして血路を拓く...という、到底「計画」とは呼べないものだった。しかしこれも「杞憂(未遂?)」に終わった。笑顔で入ってきた医師に「元気になったな。よかった。それでは良い旅を!」と送り出されてしまったのだ。みんなで玄関まで見送ってくれるという「ホスピタリティ(お・も・て・な・し)」だ。狐につままれたようだった。「後から追いかけてくるんじゃなかろうな...」と二人で後ろを警戒しながら病院を後にした。8年後、イギリス留学中に歯医者で治療を受けた際にも治療代は請求されなかった。一体ヨーロッパの医療事情はどうなっていたのか?いまだに謎である。無論今では感謝の念しかない。
次はインドだ。この国には筆者は行ったことはない。学生時代インドへの旅を計画していた際、偶然手に取った2冊の本でアフリカ大陸に惹かれ、旅先を変更したからだ。上温湯隆著の『サハラに賭けた青春①』と『サハラに死す②』である。何とも珍しい名前だが、「かみおんゆ・たかし」と読む。薩摩武士の家系だそうな。①は彼が16歳から19歳にかけて、アフリカ大陸を中心に世界中を旅した際の記録であり、②はその彼が、サハラ砂漠7000キロを単身ラクダとともに横断(縦断ではない!)せんとして壮絶な死を遂げた際の手記を、後年知人らがまとめたものだ。当時世界を旅する日本の若者たちのバイブルとなっていた。興味のある人は読んでみるといい。話をもどす。このインドから中東までは英語が通じる。大英帝国の植民地だったからだ。東南アジアではタイが全く英語が通じなかった。日本と同様、数少ない「独立を保った国」だからだ。東(ベトナム)を支配するフランスと、西(ミャンマー)を支配するイギリスが、「タイを緩衝地帯としよう」と申し合わせたのだ。白人同士で血を流し合う愚を避けるためだ。こうしてタイは独立を維持したのだ。ラオス、マレーシア、ミャンマーなどはイギリスの植民地だったから英語が通じるであろう。オーストラリアはイギリスの「流刑地」だったのだから無論「英語OK」だ。
残るは「中国」と「ロシア」。どっちも英語は全く通じない。ただ中国では漢字が使えたので「筆談」で凌いだ。ロシアはまだ「ソ連」と呼ばれていたころ旅をした。ここから東欧まで、英語は「ほぼ壊滅状態」だった。「敵性言語」なのだから仕方がない...と言えば言えた。当時の共産圏はやたら「暗かった」。首都モスクワの目抜き通りが夜になると真っ暗だ。やっと見つけた食料品店に、何と「パンがない」のである。「100円ライターが1本1000円で飛ぶように売れる!」だの「ジーンズ3本持っていけば車1台と交換してもらえる!」だの、旅人たちの間でデマ(?)が飛び交った。町も人も、兎に角すべてが「暗かった」。後年「トランスポーター」なる映画をテレビで見た。フランス人のおじさんがポーランドの女の子を「暗いよ...恐るべき暗さだ...」と形容するシーンがあった。思わず吹き出してしまった。
さてこんな状態で、何を根拠にこの先生は「日本人以外みんな英語ができる」などと断言されたのだろう。無論筆者が世界を旅したのは昔の話だ。だが今でも似たような状態のはずだ。「宗主国の呪縛」とは、それほど根深いものなのだ。「英語が苦手」ということは、「大英帝国の植民地にされなかった」ということだ。それ以上でもそれ以下でもない。「英語ができる〇〇国の人が羨ましい!」などというのは「イギリス人の奴隷に生まれたらよかったのに!」と言っているようなものだ。血を流して独立を保ってくれた先人たちに対し、恥ずかしいとは思わないのだろうか。この種の連中は次に必ず「だから日本の英語教育はダメなのだー!」と口にする。そんなことは1000%ありえない。世界中を旅してきた筆者を陰に陽に支えてくれたものは、紛(まご)うことなき日本の「受験英語」であったのだ。こんなデマに惑わされることなく、受験生諸君はしっかり英語の勉強に励んで欲しい。諸君らが学んでいる英語は、世界でも立派に通用するものだ。
笑