「海外に長くいたら英語で考えるようになりました…」などという人が時々いる。「いい年をした大人が…」と思う。日本人が英語で考えるなど「1万パーセント」ありえない。「日本人は日本語で考える」し「ドイツ人はドイツ語で考える」。当たり前の話だ。「英語で考える」が「英語を英語のままで理解する」でも同じである。よく大手予備校の先生で「英語を英語のままで理解するんだー!」などと言う方がいる。子供たちの前でちょっとカッコつけたかったのだろう。予備校の先生のレベルはそこまで低くないはずである。日本人である以上、「英語で考える」ことも「英語を英語のままで理解する」ことも、あり得ない。
では「考える」とは一体いかなる行為なのか?「考えて」みよう。「思考」には2種類ある。「動物的思考」と「人間的(哲学的)思考」である。動物だって、ちゃんと考えているのだ。「動物的思考」とは、「映像化」できるものである。「今日はカレーが食いたいなー!」と感じたとする。カレーをぐつぐつ煮込んでいる光景を思い浮かべれば、必要な食材はわかる。言語は要らない。我々人間も、人生の大半はこの「動物的思考」の中で生きている。「ダーウィンが来た!」が何故面白いのか?それは動物たちの中に、我々自身の姿を見るからだ。だが彼らが言語を持つことは遂に無かった。一方「人間的思考」は「哲学的思考」である。「人間如何(いか)に生(い)くべきか?それを考えるのが『哲学』だ」とは学生時代に学んだことだ。だがサバンナのライオンは「百獣の王、如何に生くべきか?」などとは考えない(たぶん…)。「動物的思考」のプロセスを簡単に表すと、次のようになる。
(1)「(外部からの)刺激」 ⇒ (2)「(脳内での)映像化」 ⇒ (3)「行動or発話(英語)」…・①
例えばサバンナにライオンがいたとする(やけにライオンに拘るが…)。目の前にシマウマの群れがいる。これが(1)だ。次に「あ!美味そう!」と考え(感じ)る。これが(2)だ。そして距離を詰め、「よし!いける!」となったら(3)に移る。「動物的思考」とは、(2)の「映像化」だとわかる。我々人間の場合、(3)に「発話」が加わる。ただここで注意しなくてはならないのは、この場合「英語で考えているわけではない」という点だ。「考える(感じる)」という行為は(2)で行うものだからだ。(3)の「発話」は、(2)の「映像」から直接英語に直しているだけで、内容を英語で考えているわけではない。「英語で考える…」と仰る方は、恐らくこの(3)をイメージされているのだろう。「英会話教室の英語」である。だがここではそんなレベルの話をしているのではない。「哲学的思考」の話をしているのだ。ではこちらはどうなるだろう。
(1)「(外部からの)刺激」 ⇒ (2)「(脳内での)思考(日本語)」⇒ (3)「行動・発話(英語)」…・②
(1)の「外部からの刺激」として、「あなたは高市政権の政策をどう評価しますか?」といった質問を例に取ろう。「移民問題」「消費税問題」「外交・軍事問題」などなど…。こんなものは「映像化」できないし、「日本語」で考えるしかない。では日本語であれば何故考えられるのか。それは「おぎゃー!」と生まれてこのかた、すべて知識や経験が、日本語で脳内に詰め込まれているからだ。いくら必死になって英語を勉強しても、そんなことには絶対にならない。従って「英語で考えることなど不可能」と言っているのだ。英検で「エッセイが書けないー!」と泣いている子がいる。「英語で考えよう」としていると見てまず間違いない。その証拠に「まず日本語で書くんだー!」と怒鳴ると、すぐにスラスラ書き始める。さてこの「ある言語による脳内での思考」にはデッド・ライン(締め切り)があるようで、研究(『臨界期仮説』と言うらしい)によれば、それは「3~5歳まで…」だと言う。その年齢までに「何語で考えるか」が決まってしまうのだ。「野生動物に育てられた子供たち」の不幸な例も、この説を裏付ける。3歳までに保護された子は母国語習得に成功したが、8歳の子は生涯言語障害が残ったと言う。無論人道的見地から、「再現実験」は不可能だ。
次に「英語を英語のままで理解する」という「嘘」について考えてみよう。I go to school by bike.といった文がある。こんな簡単な文、いちいち日本語を介する者などいない。「英語を英語のままで理解しろ」など「余計なお世話」である。なぜ簡単なのか?「映像化」できる内容だからだ。「エッサ・ホイサ(因みにこれは古代ヘブライ語)」と坂道を、チャリを漕ぐ情景が目に浮かぶ。だが複雑で抽象的な内容になると途端に苦しくなる。実は我々日本人は、英文の「真の意味」を理解しているわけではないのだ。難解な文の場合、まず語彙・文法などの知識を総動員し、「直訳」を作る。しかしそれでもよく分からない。ではどうするか?日本語の知識の中から「類似の例」を引っ張ってくるのだ。所謂「近似」である。そして両者を照合し、「日本語で言う○○みたいなもんだろう…」としているだけで、「皮膚感覚」として理解しているわけではない。当然「概念そのもの」が日本語に存在しない場合、その英文は絶対に理解できない。これは母国語の話者同士でも同じことだ。だから言葉の選択を間違えると喧嘩になる。言語とはつまるところ「記号」であり「近似」に過ぎない。ある意味「言語の限界」と言える。膨大な量の入試長文を読む時も、この原理を知っていれば有利である。理解できてもできなくても、まずざっと全体に目を通す。すると何の話かくらいは分かる。そこで「じゃあきっと○○って書いてあるんだろう…」と「予想」して再度読む。するとその通りの英文が次々に登場することになる。まだ筆者が20代の「駆け出し」のころ。某有名私立大学・文学部の入試問題を読んでいた。「辞書持ち込み可」で有名な「あの学部」である。しかし何が書いてあるのか全く分からない。「フーテンの寅さん」ではないが、正直泣けてきた。「もうダメ…」と諦めかけたその刹那(せつな)、ある単語が目に留まった。Jean Jacques Rousseau。そう、フランス革命期の啓蒙思想家「ジャン・ジャック・ルソー」である。「ルソーの話だったのかー!」と思った。そんなことすら理解できていなかったのだ。そこで「ルソーの話か…それなら…」と、理解できる単語をもとに、予想しながら読み進めてゆくと、あらあら不思議、「暗号解読ソフト」にかけられた怪文書よろしく、あっという間に大意が理解できてしまったのだ。母国語の持つ凄まじいパワーを目の当たりにし、茫然自失となった。思考の過程で日本語は必ず介入してくる。否、「させなくてはならない」のだ。なぜなら(くどいようだが)「言語」とは、所詮は「記号」であり「近似」であるからだ。それを、言うに事欠いて(他に言い方があろうものを)、「私は英語で考える」だの「君たちも私のように、英語を英語のままで理解できるようになれ!」だの、「できもしないこと」を、そして「決してやってはいけないこと」を、不用意に口にして子供たちを焚きつけないことだ。そもそも無責任であろう。
「母国語で考える」ということはとりもなおさず「語彙が豊富なほど、複雑な思考が可能となる」ことも意味する。逆に「思考の浅い人間」は「むかつくー!」「ダサい!」「ヤバい!(最近ではwonderfulの意味らしい)」しか出て来ない。最近の短絡的犯罪の多発も、「論理的に考えることができない人間」、すなわち「語彙の乏しい人間」の増加と密接に関係していると筆者は見る。論理的に「思考」し「言語化」すれば、心の平安も得られようものを、残念でならない。最後に名言を一つ紹介する。
One does not inhabit a country; one inhabits a language That is our country, our fatherland, – and no other.「我々は国土の中に住むのではない。言語の中に住むのである。言語こそ祖国であり、それ以外の何ものでもない」<エミール・ミハイ・シルラン:ルーマニアの作家>
oneは「人は皆…」の意味だが、敢えて「訳さない」か、訳すなら「我々は…」とするのが翻訳業界では常道とされる。またinhabitは「(集団が)居住する」という意味であり、「他動詞」であるから「目的語」を直接取り、inなどの前置詞は不要である。それにしても、けだし「名言」であろう。日本人とは何か?「菊の御紋の入ったパスポートを所持している人間」のことでも、「地震列島に住む民族」のことでも、はたまた「テルマエ・ロマエ(Thermae Romae:ローマの風呂)」言うところの「平たい顔族」のことでもない。日本人とは「日本語で考える民族」のことなのだ。筆者が言いたいことは、賢明な受験生諸君ならもうお分かりだろう。「まずは日本語をしっかり学べ!」ということだ。
執筆:鈴木先生
