go
の代わりにbe
が使われている点もさることながら、「be動詞とto
のコラボ」が読む者に強烈な違和感を与えるからだ。ご存知be
は「状態動詞(いる・ある)」である。つまり「動き」が無い。一方to
は「~へ」だから「動き」がある。「動いていないのに動いている」と言っているのだ。全くもって意味不明。兎に角英文法最大の謎の一つなのだ。ただ他に類例がないこともない。buy
「買う」である。buy
は「buy 物 to 人
」で「人に物を買い与える」となる。「え? buy
はfor
型じゃなかったの?」と気づいた方は流石である。結論から言えば「buy
はfor
もto
も両方取る」のだ。そこでまず「to
型」と「for
型」の区別について再確認しよう......①
give/tell/teach 物 to 人
...「to
型」②
cook/make/buy 物 for 人
...「for
型」中2の「3文型⇔4文型」の書き換えで学習する。①「
to
型」は「移動」を表す動詞が並ぶ。「物」が「人」のところに「到着」するからだ。一方②「for
型」は「移動」がない。まだ「物」は「人」のところに「到着」していない(「~の為に作った」だけ...)。上記の「buy 物 to 人
」は「buy 物, and give 物 to 人
(物を購入しそれを人にあげる)」の意味となる。しかしそれでは面倒なので「buy 物 to 人
(人に物を買い与える)」と表現するのだ。こういった例は他にもあるが、異常に多いのが古代ギリシャ語だ。例を挙げよう。
παρειμι[パレイミー]
という動詞がある。παρα[パラ](=to/beside)+ειμι[エイミー](=be)
の合成語である。beside
であれば「~のそばにいる」で「なるほど」と納得できるが、to
であれば「~のところに行き滞在する」の意味となる。ここで「あれ?」となる。be
が「行く」の意味で使われているのだ。「be
とto
のコラボ」がもろに現れる。確かに「(ある場所に)いる」ということは「(そこまで)行っている」わけだからその気持ちは分からなくもない。ここで素朴な疑問が湧く。「be
とgo/come
に区別があったのか?」ということだ。実は古代は
go/come/be
ではっきりした区別をしていなかった。英語でも「ランダムハウス大英和辞典」を紐解くとgo/come
を「いる・ある」の意味(go hungry
:腹をすかせている)で、be
を「行く・来る」の意味(I'll be there in a few minutes.
:すぐ行きます!)で使う用例が載っている。また古代ギリシャ語には、上記のειμι[エイミー]
という単語があるが、ειμι
とアクセントが前にあればgo/come
であり、ειμι
と後ろに移ればbe
の意味となる。活用にもほとんど差は見られない。「移動」に重点を置けばgo/come
となり、「滞在」を強調したければbe
となる。またWhat do you want to be in the future?
「将来何になりたいの?」も、「なる(=become
)」というプロセスより「なった後」に重点が置かれているからbe
となるのだ。しかし流石に時代が下って「これはまずい」と思ったか、go/come
のειμι
は使われなくなり、代わりに「中動態」のところでご紹介したερχομαι[エルコマイ]
という別の動詞が使われるようになった。しかしこのερχομαι
ですら単なる「移動」を表し、go
「行く」とcome
「来る」の区別はない。つまりhave been to
のbeen
はbe
ではなくgo/come
からの翻訳だとすれば、あるいはbe
とgo/come
が区別なく使われていた時代の名残だとすれば、have been to ~
はwent to ~, stayed there, and came back
の意味となり、全て辻褄が合う。無論これは筆者の仮説である。一方SNS上では好き勝手な憶測が飛び交っている。しかし説得力のあるものは少ない。「
be
は『存在』を表し、to
は『繋がり』を表す。従って『ある場所と繋がって存在している』の意味となり、『行ってきたところ』、『行ったことがある』の意味となる」などという説もお見掛けした。確かにbe linked to 〜/be related to 〜/be married to 〜
など、to
が「繋がり」を表すのは事実である。しかし「関係がある」がどうして即「行ったこと」になるのか? まったくの推測であろう。「牽強付会(けんきょうふかい:自分に都合のいい理屈を押し付けること ※朱子の言葉らしい)」とはこのことである。これらの説のアキレス腱は「英語以外の言語からの視点」と「歴史的視点」の2つのアプローチを決定的に欠いているからだ。まず「いつこの表現が英語に登場したか?」は分かっている。OED(Oxford English Dictionary)によればFrances Burney[フランシス・バーニー]という18世紀のイギリスの女流作家が使い始めたものを嚆矢(こうし・始め)とする。同じく女流作家のJane Austin[ジェーン・オースチン]などにも影響を与えたとされる人物だ。OEDとは過去千年間の英語の語彙と由来をすべて収録した20巻からなる大辞典だ。一度神田の古本屋で見かけたことがある。積み重ねると筆者の腰あたりまで来る。ある高齢の大学教授はこの辞典を使い過ぎ、遂には腰を痛めてしまった...という、曰(いわ)く付きの大辞典である。こうなると最早「書物」というより「凶器」に近い。さてまたしても「18世紀」だ。...とくれば「聖書」との関連性を考えるのは人情であろう。これは「進行形はヘブライ語起源」で既に書いたことだが、簡単に繰り返せば「キリスト教がイギリスに伝来したのは遥かに古いが、識字率の上昇とともにその表現が表に出てきたのは18世紀」ということだ。ただバーニーさんご本人に直接尋ねるわけにもゆかず、永遠の謎である。最後に、某大学の言語学の先生がこの「have been to
問題」に言及し、「分からない」と正直に告白された上で、「顕在化してないgo
の亡霊を想定せざるをえない...」と意味深な言葉を残しておられることを付記しておく。「現在完了・継続用法」...「完了」なのになぜ「継続」なの?
至極まっとうな疑問である。「終わった(完了)」のに「続いている(継続)」というのだ。「現在完了」の定義として或る参考書には「過去の行為が現在にまで影響を及ぼしていることを示す動詞の連語形式」とある。早い話が「過去のこと」もわかるし、その結果「現在どうなっているか」も分かる、「過去+現在」と、グリコではないが「一粒で二度おいしい」表現方法なのだ。ただし飽くまで「現在」にその重心がある。しかしよく考えれば4用法がすべて「完了」と「継続」の両方の意味を包含していることに気づくはずだ。
①
I have finished the homework.
[完了・結果]「宿題を終えてしまった」⇒「宿題を終えた(完了)
⇒その後現在まで新たな宿題はずっと出されていない(継続)」
②
He has won three gold medals.
[経験]「3回金メダルを取ったことがある」⇒「3回金メダルを取った(完了)
⇒その後4回目はないが、メダルの剥奪もない状態が続く(継続)」
③
I have studied English for ten years.
[継続]「10年間英語を勉強している」⇒「英語の勉強に着手した(完了)
⇒その(勉強する)状態が今もずっと続いている(継続)」
そもそも「現在完了」は
have the work finished [have + O + pp]
「仕事を終えた(完了)状態を(現在に至るまでずっと)保持している」という表現にその起源を持つ。これがO
とpp
が逆転してhave finished the work
となった。従って「完了」と「継続」両方の意味がもともと入っているのだ。そもそも「have + pp
」という形に意味はない。for two years/twice/already
などといったadverbial(副詞的表現)で何用法なのかを区別するしかないのだ。その「区別」すら、曖昧な定義では学習者が不安になるであろうが故、極めて「便宜的・恣意(しい)的」に設けられたものに過ぎない。筆者にこの仮説のヒントをくれたのは「ヘブライ語旧約聖書」であった。「神は6日間かけて天と地を創造され、7日目に休まれた。」という記述がある。ここで「休まれた(過去形のはず)」に「未完了(継続)」が使われているのだ。「休みに入られ、その状態が今(少なくとも旧約を記したこの記者の生きた時代まで)も続いている」からだと解釈されている。世界中の聖書学者たちを悩ませ続ける古代ヘブライ語の(そして我らが日本語もその仲間だが)奇妙な「時の概念」については後日を期すが、かくも「時制」とは厄介な伏魔殿なのだ。言語学習の面白さもそこにある。お詫びと訂正
JUKEN4月号で
mathematica[マテーマティカ]
をギリシャ語だと書きましたが、正しくはラテン語です。ギリシャ語ではmathema[マテーマ]
です。ラテン語とギリシャ語がごっちゃになっていました。お詫びして訂正させていただきます。